依田君美の生涯

●誕生

柳川の蚕室依田君美は1916(大正5)年6月29日に山梨県南巨摩郡五開村柳川(現在の富士川町柳川)にて父君治(きみはる)、母ハルジの長男として誕生。
依田家は養蚕農業を営むこのあたりの旧家。父は小学校の教師をしていた(写真は現存する蚕室)。

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●幼年期

依田君美は生まれてから口をきかない子として成長した。村人は「桂薹(けいとう。依田家の屋号)にアッパー(方言で口のきけない人のこと)が生まれた」と噂した。しかし4歳のある日、突然口をきいた。最初の言葉は「カボチャ」だった。
また、2歳の頃、突然絵を描いた。その絵は村人が集まって祝った第1次世界大戦終結の旗行列の光景を描いた墨絵だったという。それはたった2歳の子が、生まれて初めて描いたものとは思えないほどの気力に満ちた、写実的な洗練されたものだった。
それから次々に絵や手工(工作)、習字(書道)、詩などの作品を生み出した。
君美はまだ口がきけない頃、裏山に登っては夕日を見て「あの太陽のように、死ぬときは何の躊躇もなく死んでいきたい」と思ったという。
また、母が洗濯をしているとき「僕はどこから生まれてきたの?」と訊く。母がお腹の中からと答えると、「お腹の前はどこにいたの?」と訊いて母を困らせたという。

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●小学時代

小学校卒業写真1922(大正11)年、父が陸軍士官学校の教授として抜擢されたため一家は東京に移り住んだが、翌年の関東大震災をきっかけに再び山梨に戻った。
君美は小学2年のとき県立師範学校(現在の山梨大学)付属小学校に転校。「図画工作の依田君」「童謡の依田君」などと呼ばれた。
理科室の清掃と掲示物の張り出しが任されており、君美だけは授業以外でも入室が許された。
小学6年のとき、昭和天皇即位の大礼を記念して行われた國民新聞社主催の全国児童作品展では模型飛行機を出品し、山梨県展で特選になり、さらに東京の全国展でも特選に取り上げられ、昭和天皇に献上された。
おみこしが嫌いで、父からおみこしを担ぐように言われても嫌がり、おみこしが家の前を通ると戸を閉めて外に出なかったという。

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●甲府中学時代

淡雪山1929(昭和4)年に県立甲府中学校(現在の甲府第一高等学校)に入学、修養団に所属した。
中学1年のとき独特な変圧器と整流器をつくり、それが中学5年のときに発明協会展で金牌賞となった。
成績は優秀だったが、スポーツが嫌いでまじめに取り組まなかったため体育の成績は振るわなかった。また放課後の応援練習をよくこっそり抜け出し、裏手にある相川を伝って自宅に帰ったため、親が学校から呼び出されたこともあったという。
また試験があると級友と現在の弥勒館の上にある白山(写真)に登り詩吟を吟じた。

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●東京美術学校時代

川端画学校時代'36年6月27日甲府中学校卒業後、いったんは父の命により東京高等工学校(現在の芝浦工業大学)に入学したが、芸術への道を諦めきれず、両親を説得して1935(昭和10)年に川端画学校洋画科に入学。1937(昭和12)年には東京美術学校(現在の東京芸術大学)工芸科に入学した(写真は川端画学校時代、親友と歩く君美。向かって右)。
君美は学生時代より徹底して反戦思想を貫いた。当時は軍事教練が必修科目だったが、出発前のトイレ休憩の間に銃剣などの装備はすべて置いてきてしまい、弁当だけ持って出かけた。演習場に着くと敵兵の役回りを志願した。
ついに憲兵に連行されたが、やってきた憲兵が甲府中学時代の同級生で、しかも修養団の活動を共にしていた親友だった。親友に連れられていったんは中野の留置所に入ったが、すぐに出され、親友の自宅で夜通し思い出話にふけった。
翌日彼は憲兵隊に出かけていったが、しばらくすると戻ってきて、「君、もう帰ってもいいよ」と言った。当時は憲兵隊に連行されると、なぶり殺しにされることもまれではない時代だったが、授業に遅れるだけで済んだという。
その後も疎開した子どもたちに戦争反対を熱く訴えかけた。
東京美術学校での成績も優秀で、教授が依頼された教科書の執筆を代わって請け負ったこともあったという。また、工芸科以外の講義を受講する特例も得た。
1939(昭和14)年の夏、1回目の召集令状がきたが、奇跡的に即日帰郷となった。

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●青年期

東京美術学校を卒業後、1942(昭和17)年に日本硬化石美術工業所に就職。始めは仕上げを担当していたが、その腕は原型技師を上回る能力で、やがて原型技師となる。代表的な作品は二宮金次郎、地蔵菩薩など。
1943(昭和18)年、三重師範学校(現在の三重大学)の当時の校長にスカウトされて三重師範学校へ転職。転職の理由は「奈良が近いから」だった。教諭兼助教授の待遇で迎えられた。学校では図画工作の教師を務めた。学生と一緒によく話をしたり遊んだりしたため、学生からは「坊ちゃん」「ジツリキ(実力)」と呼ばれて慕われた。
同年、三重師範学校から派遣され、山梨高等工業学校(現在の山梨大学)にて機械工作履修全課程を修了した。初めて使う機械ですべて1人で仕上げた。
三重師範学校へ行くときに東京美術学校の恩師よりカメラの修理を依頼された。そのカメラはドイツ製で上海まで持っていったが直らなかったものだが、見事に修理した。これらがきっかけとなり、1944(昭和19)年に東京の軍需会社の桂製作所に転職。軍需会社に入ることは躊躇したが、断れば徴用令を出すと言われたため承諾した。
桂製作所では具合の悪い部品の直す箇所を君美がチョークで示し、助手がその箇所を直すと具合がよくなった。やがて助手には任せられないと1人で製作するようになったため、助手は逃げてしまったという。
陸軍省から依頼された偵察機用カメラでは独特な設計をし、メーカー6社の試作の中で君美が製作したカメラが採用された。しかし、東京の空襲でカメラは焼失したため、戦犯としての責任は免れた。第2次世界大戦の終結に伴い失職。それまでは時計を修理したりハンコ彫りなどをして生計を立てた。
天皇の玉音放送に「バンザイ」と叫び、会長が怒鳴り込んできたというエピソードも。
1945(昭和20)年の春、2回目の召集令状がきたが、これも奇跡的に徴兵を免除になった。
終戦後は山梨に帰ったが、職がないため生計を立てるために担ぎ屋(地方から反物や魚などを仕入れてきて売り歩く仕事)をやったりビスケットを焼いた。宮城から魚を仕入れて上帯那町に持ってきたが前日に別の人が来て売っていったため売れず、故郷の柳川に持っていって知り合いに配ったところ、代わりに米や豆などをくれたというエピソードがある。
1947(昭和22)年に自宅に依田美術研究所を創設し、日本画、洋画、彫塑、写真などを教えた。また同年、県立甲府工業高等学校の教師に就職したが2年ほどで退職した。

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●湯田高校教師時代

富士山頂にて'61年8月4日1950(昭和25)年に知り合いの先生に誘われて1年の約束で私立甲府湯田高等学校(現在の甲斐清和高等学校)に就職したが、そのまま教師を続けることになる。美術の教師を務めた。放課後に生徒とよく遊んだため「ピノチオ先生」と呼ばれて慕われた。
君美はスポーツは嫌いだったが、唯一、登山だけは好きで山岳部の顧問も務めた(写真は富士山頂にて。向かって右から2番目)。その他に視聴覚、写真の顧問も兼任。正義感が強く、いくつかのエピソードが残されている。
授業は厳格で、時間がきたらすぐに教室に入り、ベルが鳴ったらすぐに授業を終えた。このころから生徒に人格の本質は「美と愛」であることを説いた。また、時間があまると霊的な話もした。その一方で仮装行列で女装したりというお茶目な面も。
スケッチ'81年8月2日1952(昭和27)年、県内では少ない総合美術団体である山梨造形美術会の創設に参加。自らも会員として多数の作品を制作したが、1987(昭和62)年に退会した(写真は「渓流スケッチ」制作中の君美)。
また、カメラを手製し、新聞にも取り上げられた。
同じく霊的な話が好きな同僚の教師より世界真光文明教団の岡田光玉著「奇跡の世界」を紹介されて読み、感銘を受けた。当時は山梨に道場がなかったため、最寄りの八王子中道場まで行って詳しい話を聞き、1970(昭和45)年に世界真光文明教団に入信。やがて八王子中道場甲府連絡所を任されることになった。

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●救い主時代

立教祭にて1973(昭和48)年6月、神より君美のところに新たな「業」が下されたが、世界真光文明教団ではこれを認めなかったため、神の意思により独立を決意。1974(昭和49)年6月、神幽現救世真光文明教団(当教団)を立教した。これに先立ち、同年3月に甲府湯田高等学校を退職した(写真は立教祭の様子)。
当教団は主に入信した人からの「口コミ」で広まった。最初は自宅でのみ入信希望者のための研修会を開いていたが、1979(昭和54)年に県外で初めての研修会が岐阜で行われた。以降、北は青森から南は鹿児島まで、全国を東奔西走した。70歳を過ぎても1人で運転から研修会までこなした。九州まで1日で自動車を運転していき、翌日より2日間の研修会を行ったというエピソードもある。
本山と弥勒館本山建立の用地取得には自ら金策に走った。すでに、若いときからゆかりのある現在地と決めていたが、地元の有力者から不動産業者を紹介され、タッチの差で取得することができた。また、取得した用地は砂防保安林のため、通常なら建物の建築ができないが、奇跡的に砂防保安林解除の申請が受理された。1989(平成元)年8月、神幽現総本山が竣工した。
そして、第2期工事の着工を目標に神組手(当教団の信者)が一体となり、寄付金の奉納活動が始まった。その結果、2001(平成13)年2月に弥勒館の竣工に至った(写真:左が神幽現総本山、右が弥勒館)。
生涯風貌は質素で、およそ一般的な宗教の代表者というイメージでなく「どこにでもいる普通のおじいちゃん」という感じだったと神組手は口をそろえる。
2003(平成15)年1月、依田君美は満86歳の生涯を閉じた。

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